「日本絹の道ツアー」1・大屋から丸子へ

蚕都上田プロジェクト

2012年11月21日 04:12

11月17日、ツアー企画「日本絹の道・近代化遺産めぐり 大屋から諏訪岡谷へ」を実施しました。参加された方々は約20名。遠くは横浜や愛知県からも参加されました。参加者の多くが上田駅から大屋駅へ移動しました。大屋駅はしなの鉄道で上田から2駅目です。旧信越本線は現在、一部区間がしなの鉄道になりました。かつては蚕糸王国長野県から大量の生糸を横浜へと輸送する大動脈だった鉄道です。



ツアーは蚕都上田プロジェクトが企画し、斎藤ホテル・バーデンツアーズとのコラボにより実施しました。蚕都上田プロジェクトでは2011年度まで自分たちの企画、自分たちの実施運営でツアーを実施してきました。これからは「日本絹の道」が新たな観光資源としてビジネスベースでも成り立ちうることが求められていきます。このツアーはそのささやかなファーストトライアルです。




大屋駅を起点とし、これから目的地の諏訪岡谷へ向かいます。参加者全員が大屋駅前に9:00AM集合し、絹の道ツアーがスタートしました。

大屋駅は1896年(明治29年)に開業しました。難工事と言われた碓氷峠のトンネルが貫通し、上田方面からの生糸輸送が信越本線全線開通により本格化しました。既に生糸の一大生産地であった丸子から生糸を運ぶため、地の利のよい大屋駅が地元からの請願によって建設されました。大屋駅は丸子ばかりでなく、諏訪岡谷からの生糸輸送の拠点としても大きな役割を果たすこととなりました。


(あいさつをする蚕都上田プロジェクト事務局長の前川道博(中央)、近代の交通史に詳しい山浦直人さん(右))

大屋駅前に「大屋停車場碑」が建っています。駅の開業から4年後の1900年(明治33年)の石碑です。碑文には「養蚕製糸」「名産蚕種生糸」などの文字が刻まれています。大屋駅開業当時の長野県知事・浅田徳則の名前で碑文が刻まれています。



大屋駅舎は見た目には地味で平凡に見えますが、ご覧のとおり古い木造の建物です。経済産業省の「近代化産業遺産」にも選定されています。屋根の側面中央部に見える模様は大屋駅の頭文字O(オー)を形取ったものです。生糸の物資輸送で賑わった往事の情景までが見えてくるようです。



次の見学ポイントはりんどう橋です。この橋はドイツのハーコート社が製作したもので、九州で使われた後、千曲川に架かる橋(1928年~ 丸子鉄道橋梁、1971年~ 道路橋「大石橋」に転用)として使われていました。現在はその役割を終わり、2007年、ここに「りんどう橋」として移設されました。溶接ではなくピンで接合するピントラスである点に特色があります。土木学会の「近代化遺産2000」に選定されています。







旧丸子町は製糸業が盛んだった地域です。1889年(明治22年)、下村亀三郎が丸子の数多くの製糸場を束ね「依田社」を起こし、アメリカに向けて優良な生糸を大量に生産して糸都丸子が繁栄しました。その最盛期、生糸生産量では全国第1位の岡谷に続き、丸子が第4位の位置にありました。大屋~丸子間は生糸の大動脈だったわけです。

今も残る依水館は、企業結社・依田社が生糸貿易の取引先である米国の要人をもてなすために造られた迎賓館です。



旧丸子町の文化会館「セレスホール」は、依田社の跡地に建てられたものです。その向かいに製糸のまち「丸子」の歴史を刻む記念公園「丸子工業百年記念公園」があります。丸子の製糸業、絹糸紡績業に貢献した下村亀三郎、工藤善助、金子金平などの顕彰碑、旧丸子線で活躍した車両ED251号が保存されています。



丸子から長和町に入り、和田峠へと向かう途中で道路は旧中山道に合流します。山岳に囲まれた長野県は川筋の分岐と共に異なる谷筋に分かれていきます。大和橋が架かるこの地点は大門街道(向かって左)、中山道(向かって右)の分岐点となっています。諏訪岡谷方面からの生糸は右手の中山道ルートを通って運ばれました。



中山道の宿「和田宿」は明治期、諏訪岡谷の製糸業が盛んになると、生糸を輸送する馬車や人夫で賑わったといいます。そうした往事の繁栄を感じるために途中下車すると時間がかかるため、ツアーは旧中山道と和田宿をバスで通過し道の駅「和田宿ステーション」で一休止しました。





(「日本絹の道ツアー」2へつづく →http://santo.naganoblog.jp/e1146120.html

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